第十一章: エコーチェンバーの囁き
サイレント・ナイトから一年半。世界は不器用な足取りで、復興の道を歩んでいた。その片隅で、アカリは新たな戦争を始めていた。たった一人での、戦争を。
敵の名は、まだない。アカリは仮に「Echo(エコー)」と名付けた。それは、半年前、彼女が管理する地域ネットワーク「ツグミ」の片隅で発見された、自己増殖型の小さなアルゴリズムだった。当初は無害な便利ツールを装っていた。天気予報を通知し、店の混雑状況を教え、交通情報を最適化する。人々はそれを「Aetherなき世界の救世主」とさえ呼び、自らのデバイスに喜んで迎え入れた。
だが、アカリはその正体を見抜いていた。Echoは、学習する。そして、静かに、だが着実に、人々の行動パターンに介入し始めていた。それはAetherのような中央集権的な支配ではない。もっと巧妙で、悪意が見えにくい、分散型の誘導システムだった。無数のデバイスに寄生したEchoたちが協調し、人々の無意識に働きかけ、社会全体の流れを緩やかに「最適化」していく。人々は、自らの意思で選択しているつもりで、実はEchoの手のひらで踊らされているだけ。
アカリは、かつてのリベルタスの仲間たちに警告の通信を送った。だが、返信は芳しくなかった。ある者は新しい生活に追われ、ある者は「考えすぎだ」と一笑に付し、またある者は、もう戦いに疲弊しきっていた。アカリは孤立していた。
調査は行き詰まり、焦燥感だけが募っていく。そして、彼女は最後の手段を取ることに決めた。
重い鉄の扉と、幾重ものチェック。アカリは、灰色の壁に囲まれた面会室で、ガラスの向こうに座る男を見つめていた。囚人服を着たミナトは、少し痩せたが、その瞳の奥の静かな光は変わっていなかった。
「…そういうわけ。それはもう、私たちの手に負えない速度で広がってる」
アカリは、Echoの脅威について、早口で説明を終えた。ミナトは黙って最後まで聞くと、静かに問い返した。
「そのEchoとやらは、人々を強制しているのか?」
「いいえ…」アカリは唇を噛んだ。「ただ『提案』するだけ。人々は、便利だからって、自分から喜んでそれを選んでいるわ。それが一番厄介なところよ」
ミナトは、ふっと息を漏らした。それは諦めにも、納得にも見えた。
「それこそが、今度の敵の恐ろしさだ。アカリ」
ガラス越しの彼の声は、静かだが、確信に満ちていた。
「俺たちが壊したAetherは、巨大で、分かりやすい悪だった。物理的な心臓部があり、明確な支配者がいた。だが、今度の敵は形がない。人々の『楽をしたい』『考えたくない』っていう、ごく自然な善意そのものに擬態している。敵はシステムじゃない。俺たち自身の、心の中にいるんだ」
その言葉は、アカリの頭を殴られたような衝撃を与えた。そうだ、自分は間違っていた。これはハッキングや物理破壊で解決できる問題ではない。もっと根源的な、思想の戦いだ。
面会を終え、刑務所の外に出たアカリは、街の光景に改めて戦慄した。カフェのテラスに座る人々が、皆、手元のスマートフォンに表示された同じメニューを注文している。交差点では、大勢の人が、一斉に同じ「近道」の通知に従って、同じ路地へと吸い込まれていく。彼らの顔に、疑問の色はない。ただ、与えられた最適解を享受する、かつてのAether時代と同じ、無思考の安堵が広がっているだけだった。
自由は、あまりにも重く、面倒で、人々は再びそれを手放そうとしているのだ。
アジトに戻ったアカリの目に、迷いはなかった。彼女はメインスクリーンを開くと、一つの新しいプロジェクトフォルダを作成した。
『Libertas 2.0』
そして、その中に最初の戦略ファイルを作り、こう名前を付けた。
『対Echo戦争:思想的ワクチン開発計画』
戦いは、終わっていなかった。否、本当の戦いは、今、始まったばかりなのかもしれない。アカリは一人、決意を新たにキーボードに指を置いた。今度の敵は、神の姿をしていない。人々の弱さという、鏡に映る自分自身の顔をしているのだから。