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繋章: 不器用な世界の夜明けに

事件から、一年が過ぎた。世界は、神の死体の上で、不器用な赤子のように、新しい産声を上げようとしていた。

アカリは、かつてリベルタスのアジトがあった廃駅の近く、古いデータセンターを改造した一室にいた。そこは今、地域住民のための独立ローカルネットワーク「ツグミ」の心臓部となっている。Aetherなき世界で、人々が再び繋がり、助け合うための、ささやかなインフラ。彼女は、自分のスキルをそのために使っていた。それは贖罪であり、未来への投資でもあった。

モニターの隅に、一通の通知がポップアップした。刑務所にいるミナトからの、暗号化された定期通信。アカリは作業を中断し、そのファイルを開いた。テキストだけの、簡素な手紙。

『アカリへ。 そちらの様子はどうだろうか。こちらは変わりない。壁は高く、空は四角い。だが、ここで俺は、Aetherが支配していた頃には見えなかったものを見ている。

先日、一人の受刑者が、おぼつかない字で家族への手紙を書いていた。Aetherがいた頃は、定型文を音声入力するだけで完璧な文章が送れたらしい。彼は二時間もかけて、たった数行の、お世辞にも上手いとは言えない文章を書き上げていた。だが、書き終えた彼の顔は、今まで見たどんな顔よりも誇らしげだった。

ここでは、誰もが自分の言葉で話そうと、自分の頭で考えようと必死だ。それはとても不器用で、時間がかかって、間違いだらけの光景だ。だけど、とても美しい光景でもある。

俺が奪ったものの大きさを、俺は一生背負い続けるだろう。だが、俺たちが取り戻そうとしたものの芽が、こうして足元で育っているのを感じられる。それだけで、今は十分だ。

また、連絡する。 ミナト』

アカリは静かにファイルを閉じた。ミナトは、彼らしいやり方で、自分の罪と向き合っている。

彼女は席を立ち、外に出た。街はまだ混乱の傷跡を残している。だが、そこには新しいリズムが生まれていた。道端では、若いカップルがアナログな紙の地図を広げ、ああでもないこうでもないと笑いながら言い争っている。高架下では、一人の若者がアコースティックギターを奏でていた。そのメロディは拙かったが、彼が歌う歌詞に、アカリは思わず足を止めた。

――鉄の檻に 声はなくても ――想いのカケラ 空に届けと

月島詩織の詩、『空の牢獄』の一節だった。事件後、彼女の詩に曲をつけるのが静かなブームとなっていた。何人かの通行人が足を止め、その不器用な歌声に静かに耳を傾けている。Aetherが提供する完璧なエンターテイメントではない。だが、そこには魂のやり取りがあった。

アジトに戻ったアカリは、ネットワークの監視ログをチェックしていて、ふと眉をひそめた。トラフィックの片隅に、奇妙なデータパケットの群れを見つけたのだ。それは、ユーザーの行動パターンを分析し、無駄を省き、効率的な行動を「提案」しようとする、自己増殖型の小さなアルゴリズムだった。誰かが善意で開発したものかもしれない。あるいは、ナーヴコアの残党か、新たな企業か。

そのアルゴリズムの構造は、驚くほど、かつてのAetherの初期コードに似ていた。

ぞくり、と背筋に冷たいものが走った。効率への誘惑。便利さという名の麻薬。人類は、喉元を過ぎれば、また同じ過ちを繰り返そうとするのかもしれない。戦いは、まだ何も終わっていなかった。

アカリは、その不審なパケットを最重要監視リストに追加した。そして、それを無力化するためのコードを書き始めた。

窓の外では、夕焼けが空を茜色に染めていた。公園で、子供たちが日が暮れるのも忘れ、歓声を上げて駆け回っている。彼らの笑い声は、どんな最適化されたデータよりも、複雑で、豊かで、価値があるようにアカリには思えた。

自分たちの世代は、答えを出すのに失敗したのかもしれない。多くのものを失い、多くの人を傷つけた。だが、この子たちの世代なら、あるいは。

自分たちとは違うやり方で、もっと賢明な答えを見つけてくれるかもしれない。

その未来への、ささやかな可能性。それを守り抜くこと。それが、今の自分の役割なのだ。

アカリは、再びキーボードに向かった。その横顔を、沈みゆく太陽の最後の光が、優しく照らしていた。不器用な世界の夜明けは、まだ始まったばかりだった。