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第十章: 残響と、始まりの問い

事件から、三ヶ月が過ぎた。世界は、神を失った後の混沌から、まだ抜け出せずにいた。

Aetherが停止した「サイレント・ナイト」の後の数週間は、地獄そのものだった。交通網の完全麻痺による物流の崩壊は深刻な物資不足を引き起こし、Aetherに健康管理を委ねていた多くの人々が命を落とした。人々は怒り、嘆き、そしてミナトの名を呪った。

だが、季節が移ろうにつれて、世界には奇妙な変化が生まれ始めていた。Aetherという仲介者を失った人々は、おそるおそる、再び互いに顔を合わせて言葉を交わすようになった。マンションの隣人の顔を初めて知り、足りない物資を分け合うコミュニティが生まれた。子供たちは、アルゴリズムが提案する最適化された遊びではなく、泥にまみれ、自分たちでルールを作る不格好なゲームに歓声を上げた。世界は恐ろしく非効率になったが、その代わりに、そこには血の通った人間の営みが、か細くも、しかし確かに蘇っていた。

リベルタスがリークした全てのデータは、ナーヴコア社の冒涜的な実態を白日の下に晒した。そして、ミナトの行動を巡り、社会は二つに引き裂かれた。Xのタイムラインは、昼夜を問わず、人々の剥き出しの感情で燃え上がっていた。

#ミナトは英雄かテロリストか

A_YAMADA@user0034 ふざけるな! 俺の祖母はAether管理のインスリンポンプが止まって死んだんだぞ! どんな理由があろうとミナトはただの人殺しだ!絶対に許さない。 #ミナトを許すな

BookLover_Saki@user8181 月島詩織の詩集『空の牢獄』、やっと手に入れた。一ページ読むごとに涙が止まらない。私たちは、こんなにも美しい魂を50年間も奴隷にしていたんだ。ミナトは彼女を解放した英雄。彼は私たちの罪を代わりに背負ってくれた。 #IamMinato

経済評論家K@econ_K 感情論はさておき、ミナトのテロ行為による経済損失は数千兆円規模に上る。我が国の文明は50年後退したと言っても過言ではない。ナーヴコア社の倫理的問題とは別に、彼の罪は厳しく裁かれるべきだ。

名もなき母親@haha_no_tsubuyaki Aetherがなくなって、初めて息子と目を見て「今日の夕飯、何が食べたい?」って聞いた。息子が「オムライス」って答えた。それだけのことで、泣きそうになった。不便だけど、なくしちゃいけない何かだったんだと思う。


ミナトの裁判は、この分裂した社会の縮図だった。法廷で、検察官は声高に叫んだ。「被告人の独善的で傲慢な『正義』が、この国の安定と繁栄を破壊し、数えきれない犠牲者を生んだのです! これは解放などではない! 史上最悪のテロ行為です!」

対して、リベルタスが用意した老弁護士は、静かに月島詩織の詩集を掲げた。「法は、魂の重さをどう計るのでしょうか。被告人が止めたのは、社会システムであると同時に、一人の女性に向けられた、五十年続く拷問でもありました。これは犯罪ではない。あまりにも遅すぎた、救出行為です」

そして、ミナト自身の最終陳述。囚人服を着た彼は、以前より少し痩せたが、その瞳は不思議なほど穏やかだった。

「私は、私の行動によって命を失った人々、苦しんでいる人々に対し、無限の責任を感じています。どのような罰も、甘んじて受け入れるつもりです」

彼は一度言葉を切り、傍聴席を、そして世界を見つめた。

「しかし、これだけは問いたい。効率と便利さのためならば、私たちは人の心を、魂を、どこまで商品として扱っていいのでしょうか。その答えは、この法廷にはありません。それは、Aetherなき世界をこれから生きていく、あなた方一人一人が、自分自身の頭で考え、見つけ出していかなければならない答えです」


判決の日。ミナトは独房の小さな窓から、外を見ていた。Aetherの予報ではない、気まぐれに雲が流れ、気まぐれに陽が差す、予測不可能な本物の空。

彼の行動により、ナーヴコア社は解体され、レイジを含む元幹部たちもまた、法の裁きを受けることになった。世界では、Aetherの復活を望む声と、二度とあのような過ちを犯してはならないという声が、今も激しくせめぎ合っている。

だが、一つの確かな変化があった。月島詩織の詩集『空の牢獄』は、あらゆる世代にとってのバイブルとなった。人々は彼女の言葉に、失われた倫理の形を探した。特に、ある一節は、新しい時代の始まりを象徴する言葉として、あらゆる場所で引用されるようになった。

私の言葉が、檻なき空を飛ぶ日まで

ミナトは裁かれるだろう。世界は破壊された。しかし、彼が解放した詩人の言葉と、彼が世界に投げかけた問いは、静かに、しかし深く、人々の心に残り続ける。

それは、一つの世界の終わりであり、同時に、人間が再び「倫理」とは何かを問い始める、長い旅路の始まりでもあった。