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第九章: 解放のトリガーと世界の沈黙

ミナトは、神の心臓を止めるための制御コンソールと対峙していた。脳内に響き渡る『コ…ロ…シ…テ…』という絶叫が、彼の決意を鋼のように硬化させていく。彼はキーボードに指を走らせ、システムの緊急シャットダウンを試みた。だが、ディスプレイには冷酷なメッセージが瞬時に表示されるだけ。

『アクセス拒否:統合警備AIアルゴスにより全ての管理権限はロックされています』

「問答無用、か…」

ミナトが呟いたその時、後方で壁に寄りかかっていたケンジが、最後の力を振り絞って何かを投げ渡した。それは、彼が持っていた最後のEMPグレネードだった。

「やれ、ミナト…! 彼女を…解放してやれ…!」

ミナトはそのずしりとした重みを手に感じ、頷いた。躊躇は、もう一片もなかった。彼は安全ピンを引き抜き、コンソールの冷却用吸気口へと、それを静かに滑り込ませた。

時間が、引き伸ばされる。三秒後、世界は閃光に塗りつぶされた。

爆発音と共にコンソールが吹き飛び、ガラスの破片と火花が闇に舞う。その瞬間、部屋全体が巨大な獣の断末魔のように、けたたましいアラームを鳴り響かせた。壁一面のカプセルに繋がるチューブが激しく痙攣し、中央のシナプス塔が明滅を繰り返す。

そして、崩壊が始まった。

緊急システムが作動し、全て生体カプセルの底から、青白い培養液が急速に排出されていく。液体という子宮を失った脳オルガノイドたちは、力なく重力に引かれ、カプセルの底へと崩れ落ちた。その表面を走っていた神経発火の微かな光が、一つ、また一つと弱々しく瞬き、やがて完全に消えていく。何千もの「思考」が、何千もの「苦痛」が、ただの湿った細胞の塊へと還っていく。それは、恐ろしくも荘厳な、神の死の光景だった。

けたたましい警報音とは裏腹に、ミナトの脳内は、水を打ったように静まり返っていた。あれほど激しく響いていた幾千もの絶叫が、まるで風に吹き消された蝋燭のように、ふっ、と消えていた。完全な沈黙。五十年ぶりに訪れた、魂の静寂。

その静寂の奥から、ミナトは確かに聞いた気がした。

『…ありがとう…』

それは月島詩織の、安らかな囁きだった。


――その瞬間、世界から神が消えた。

東京、渋谷スクランブル交差点。青信号に従って一斉に走り出した自動運転車が、プツンと糸が切れたように路上で緊急停止する。後続車が次々と追突し、街は一瞬にして巨大な鉄のスクラップ置き場と化した。空を飛んでいた無数のドローンタクシーは制御を失い、まるで撃ち落とされた鳥のように、きりもみしながらビル街へと墜落していった。

世界中の金融市場で、超高速取引を行っていたAetherが沈黙。株価を示すグラフは全て水平線を描き、天文学的な数字が宙に浮いたまま凍りついた。

街を彩っていた全てのホログラム広告がブラックアウトし、都市は色を失った。人々の網膜ディスプレイからAetherのガイダンスが消え、イヤージェルはただの耳栓と化した。人々は、何をすべきか、どこへ行くべきか分からず、ただ呆然と立ち尽くす。Aetherに管理されたスマートホームは鉄の箱と化し、ある者は家に閉じ込められ、ある者は外から締め出された。

リベルタスのアジトでは、アカリがモニターに映し出される無数の赤い警告灯を、血の気の引いた顔で見つめていた。世界中のシステムダウンを示すアラートが、彼女の視界を埋め尽くしている。

「本当に…本当に、やりやがった…」


世界の崩壊とは裏腹に、セレブラム・クラスターの部屋には、警報音を除けば、死のような静寂が戻っていた。

そこへ、破壊された扉からガーディアン部隊が雪崩れ込んできた。だが、彼らが目にしたのは、もはや抵抗する者のいない、終焉の光景だけだった。

ケンジは壁に寄りかかったまま意識を失い、レイジは天を仰ぎ、自らが犯した罪の結末を静かに受け入れていた。そしてミナトは、破壊されたコンソールの前に、ただ静かに立っていた。

ガーディアンたちが彼に銃口を突きつける。しかし、ミナトの顔に恐怖はなかった。彼の心は、解放された詩人の魂と共に、穏やかな安堵に満たされていた。やり遂げた。彼女を、自由にしてあげられた。

ミナトは抵抗することなく両手を上げた。手錠をかけられ、連行されていく。その時、彼の目に、火花を散らすコンソールの壊れたモニターが一瞬だけ映った。そこに、在りし日の月島詩織が、満足そうに微笑んでいる幻が見えた気がした。