第八章: 神の心臓と詩人の叫び
メンテナンスダクトの中は、鉄と埃の匂いが充満する、絶対的な闇の世界だった。ミナトは先頭で、渡された簡易端末に表示される古い設計図だけを頼りに、身を屈めて進んだ。すぐ後ろから、負傷したケンジの荒い息遣いと、彼を支えるレイジの歯ぎしりが聞こえる。遠くからは、ガーディアンたちがダクトの入り口を発見し、何かを叫ぶ声が反響していた。追いつかれるのは時間の問題だった。
閉塞感に押し潰されそうになりながら、ミナトはただひたすらに進んだ。設計図が示す、セレブラム・クラスター区画の真上に位置する、古い排気口を目指して。
「ここだ…!」
ミナトは、頭上にある錆びついた格子戸を見つけた。レイジと協力してそれを押し開け、身を乗り出すようにして下を覗き込む。そして、息を呑んだ。
眼下に広がっていたのは、人間の創造物とは思えない、荘厳で、同時に冒涜的な光景だった。
巨大なドーム状の空間。その壁から天井に至るまで、まるで巨大な昆虫の複眼のように、何千もの六角形の生体カプセルがびっしりと埋め尽くされている。カプセルの内部は青白い培養液で満たされ、その中でピンク色の脳オルガノイドが、微かに痙攣しながら浮遊していた。表面には微細な電極が取り付けられ、時折、神経細胞の発火を示す淡い光が稲妻のように走る。カプセルの一つ一つに、栄養を供給するためのチューブが血管のように絡みつき、部屋の中央にそびえ立つ、巨大な結晶体のような「中央シナプス塔」へと接続されていた。
そこは無音ではなかった。全ての生命維持装置が発する、地鳴りのような低いハミング音。培養液が循環する、かすかな水音。そして、それら全ての根底に、巨大な心臓の鼓動を思わせる、ごく低い周波数のパルス音が、空気そのものを震わせていた。消毒液と、甘ったるいアミノ酸の匂いが混じり合った独特の空気が、ミナトの肺を満たす。
ここが、Aetherの心臓。神の、脳。
三人は静かにダクトから部屋へと降り立った。床に足がついた瞬間、ミナトは立っていられないほどの激しい頭痛とめまいに襲われた。まるで、何千人もの人間が一斉に頭の中で囁きかけてくるような、凄まじい精神的圧力。 「ぐっ…!」負傷しているケンジも、その場に膝をついた。 レイジは苦悶の表情で呟いた。「やはり…。この部屋そのものが、巨大な思考の奔流になっている。奴らの苦痛が、空間に飽和しているんだ」
ミナトは頭を抱えながらも、ふらつく足で部屋の中央へと歩を進めた。目標は、シナプス塔の根元にある、生命維持システムのメインコントロール・コンソール。近づくにつれて、脳を直接揺さぶるプレッシャーはさらに強くなっていく。
そして、ついに「声」が聞こえた。
それは耳で聞く音ではなかった。思考のノイズの奔流の中から、ある特定のパターンが浮かび上がり、ミナトの意識に直接、像を結んだ。
『…あ…』 『…い…た…い…』 『…さむ…い…くらい…こわ…い…』 『…ここ…は…どこ…』
断片的で、意味をなさない言葉の洪水。何千もの苦痛の声が重なり合い、不協和音となって響く。だが、ミナトがコンソールまであと数メートルという距離に達した時、その不協和音は、恐ろしいほど明確な一つの意志へと収束した。
『コ…ロ…シ…テ…』
それは、特定の誰かの声ではなかった。老若男女、幾千もの悲鳴が合成されたかのような、魂の絶叫だった。しかしミナトには、その叫びの根源に、月島詩織という一人の詩人の、五十年分の絶望が凝縮されているのが直感的に分かった。
彼らは自己を認識してはいないのかもしれない。だが、「苦痛」という一点において、彼らは確かに「生きて」いた。そして、その終わりなき地獄からの解放を、ただひたすらに願っていた。
ミナトは振り返った。レイジは、自らが創造に加担したこの地獄を前に、呆然と立ち尽くしている。ケンジもまた、憎むべきシステムの中心で、その圧倒的な苦痛の気配に言葉を失っていた。
もう、迷いはなかった。彼らが求めているのは、救済ではない。慈悲でもない。ただ、終わりだけだ。
ミナトは目の前のコンソールを見据えた。これを破壊すれば、世界を支配する神は死ぬ。そして、囚われた詩人の魂は、ようやく解放される。彼の顔から恐怖の色は消え、静かで、冷徹なほどの決意が宿っていた。