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第六章: 深淵へのダイブ

アジトの薄暗い空気が、作戦前の濃密な緊張で満たされていた。中央のホログラム・テーブルには、ナーヴコア本社ビルの立体見取り図が青白く浮かび上がっている。レイジが、その光の中を指でなぞりながら、最終ブリーフィングを行っていた。

「潜入は、今夜の日付変更と同時に開始する。ルートは正面からだ」

レイジの言葉に、メンバーの間に緊張が走った。

「深夜のビルメンテナンスを請け負う下請け業者『クリーン・アース』。ここのIDと車両は、アカリがすでに完璧に偽装済みだ。最も大胆なルートだが、それゆえに警備AIの予測アルゴリズムの盲点を突ける可能性が一番高い」

役割分担が告げられる。戦闘と物理的障害の突破は元傭兵のケンジ。全体の指揮と旧式セキュリティのバイパスはレイジ。そして、潜入チームのナビゲーターと、内部システムへアクセスするための物理ポート確保という重責が、ミナトに任された。アジトに残るアカリは、ビルの監視カメラ網や警備ドローンの制御といった、サイバー空間からの全面的な支援を行う。

「タイムリミットは、警備員の交代とサーバー冷却システムの定期メンテナンスが重なる、わずか18分。この間に地下10階のセレブラム・クラスター区画に到達し、生命維持システムを無力化する。失敗は許されない」

ブリーフィングが終わり、メンバーはそれぞれの準備に取り掛かった。ケンジは音もなく特殊合金製のツールやEMPデバイスをベストに装着していく。ミナトは、渡された小型のデータ接続装置を握りしめ、何度も深呼吸を繰り返した。数週間前まで、ただのデータ校正技師だった自分が、これから世界を支えるインフラを破壊しにいく。その事実が、現実感を失わせるほどの恐怖となって押し寄せていた。

「怖くない人間はいない」背後から、レイジが静かに声をかけた。「恐怖は、生きている証拠だ。だが忘れるな。詩織さんは、お前のような人間が気づいてくれるのを、五十年も待っていたんだ」

その言葉が、ミナトの震える心に一本の芯を通した。


日付が変わる数分前。偽装されたクリーン・アース社の電動バンは、ナーヴコア本社の巨大な搬入口ゲートの前に静かに停車した。赤外線スキャナが車内を舐め、認証端末がIDカードの提示を求めてくる。運転席のレイジが、偽造IDを冷静に差し込んだ。

『認証中…』

無機質な音声。ミナトの心臓が、時計の秒針より速く脈打つ。数秒が、永遠のように感じられた。

『――認証完了。クリーン・アース社、第3メンテナンスチーム。ようこそ』

アジトのアカリから、インカムに短いメッセージが入る。『やった!』。ゲートが重い音を立てて開き、彼らは光に満ちた神の領域へと足を踏み入れた。

清掃員のユニフォームに着替えた三人は、ビル内部を慎重に進んでいく。深夜にもかかわらず、フロアのあちこちでナーヴコアの社員たちがAetherと向き合い、一心不乱に作業を続けていた。彼らの完璧に最適化された日常と、これから自分たちが引き起こす大破壊との間にある、あまりに巨大な断絶。ミナトは、彼らの顔を見ることができなかった。

「あと15秒で巡回ドローンが来る! 次の角を右!」アカリの切迫した声が飛ぶ。三人は足早に物陰に隠れ、ドローンが静かに通り過ぎるのを待った。監視カメラの視線が外れる一瞬の隙をついて通路を駆け抜ける。サイバー空間のアカリと、現実世界の彼らが、一つの生命体のように連携して、ビルの神経網をかいくぐっていく。

目的の地下施設へと繋がる、職員用の特別エレベーターホールにたどり着いた。ミナトは指定された壁のコンソールパネルを開き、震える手で持ってきたデータ接続装置をポートに差し込んだ。 「ポート、開いた!」ミナトが囁く。 『受信! これで地下フロアの制御を一部奪える! よくやった、ミナト!』アカリの安堵した声が聞こえた。

レイジがエレベーターを呼び出し、三人が乗り込む。降下ボタンが押され、扉が静かに閉まった。地下へ。深淵へ。ゆっくりとした下降の感覚が、胃を締め付ける。

その時だった。エレベーター内の照明が一瞬だけ赤く明滅し、すぐに元に戻った。ビル全体に、人間の可聴域ギリギリの低い周波数の音が響く。

レイジが忌々しげに舌打ちした。「気づかれたか…。ナーヴコアの統合警備AI『アルゴス』が、我々の存在を不確定要素として認識し始めた。ビル全体のセキュリティレベルが、静かに引き上げられている」

ゴトン、という重い音と共に、エレベーターが目的の地下10階に到着した。上昇していく心拍数とは裏腹に、世界から音が消えたかのような静寂が訪れる。

開く扉の向こうに、何が待ち受けているのか。

それはもう、神のみぞ知る――いや、神を殺そうとしている彼らには、知る由もなかった。