第五章: 詩人の涙と決断
アジトの空気は、これまでになく張り詰めていた。メインスクリーンには月島詩織の穏やかな笑顔が映し出されているが、その前で交わされる言葉は刃のように鋭かった。彼女の真実を知った今、リベルタスは岐路に立たされていた。
「あくまで情報公開にこだわるべきだ!」
声を荒げたのは、チーム随一の女性ハッカー、アカリだった。彼女は現実主義者で、これまで幾度もチームを危機から救ってきた。
「我々はテロリストじゃない、告発者よ。セレブラム・クラスターの存在と、月島詩織の悲劇を裏付けるデータを全てリークする。世論がナーヴコアを裁くはずだわ。物理破壊なんてただの暴力よ。我々が悪になったら、誰も真実に耳を貸さなくなる」
「世論だと?」アカリの言葉を嘲笑ったのは、ケンジという大柄な男だった。彼は反Aether運動で家族を失った過去を持つ。「Aetherに脳みそを預けた家畜共に、真実を判断する力なんて残ってるもんか! ナーヴコアは得意の情報操作で、詩織さんを『精神を病んだ哀れな提供者』に、我々を『彼女の尊厳を政治利用するテロリスト』に仕立て上げるに決まってる。そんな結末が見えないのか!」
アカリが反論する。「Aetherを止めれば、社会がどうなると思ってるの? 医療、交通、金融…すべてが麻痺する。大勢の人が死ぬわ! それは、詩織さんが望むことじゃない!」
「彼女は今この瞬間も、あの機械の中で苦しんでるんだぞ!」ケンジは机を叩いた。「議論してる間にも、彼女の魂は削られていくんだ! 一刻も早く、あの忌まわしい機械を止めて彼女を解放してやることだけが、唯一の正義じゃないのか!」
議論は平行線を辿り、アジトの空気は険悪になる一方だった。ミナトは、そのやり取りを唇を噛みしめながら聞いていた。アカリの言うことは正しい。社会を大混乱に陥れる権利など、自分たちにあるはずがない。テロリストとして断罪されることへの恐怖も感じていた。
だが、その一方で、ケンジの叫びが彼の胸を抉る。脳裏に、詩織の日記の言葉が蘇る。『黄金色の涙をこぼしているみたい』。そんな繊細な感受性を持った人間が、今、思考を切り刻まれ、データとして利用され続けている。システムの奥から聞こえた、あの「塩辛い」というノイズの感触。それは、理屈で割り切れるものではなかった。
これは、社会をどう変えるかという壮大な革命の話であると同時に、檻の中で泣いている一人の人間をどう救うかという、あまりにも個人的な物語なのだ。
議論が行き詰まり、重い沈黙がアジトを支配した、その時だった。ミナトは静かに立ち上がった。皆の視線が、新参者の彼に集まる。
「…僕が読んだ、彼女の詩の草稿に、こんな一節がありました」
ミナトは目を閉じ、記憶の中の言葉を紡いだ。
「――私の言葉が 声にならなくても。私の想いが 檻に囚われても。いつか誰かが 気づいてくれるなら。この牢獄も 悪くはないのかもしれない」
彼はゆっくりと目を開け、アカリと、ケンジと、そしてレイジの顔を順に見た。
「彼女は、気づいてくれる誰かを、五十年も待ち続けていたんだと思います。僕たちが今、社会がどうなるとか、自分たちがどう見られるかという『正しさ』を議論している間も、彼女はずっと、あの檻の中で待っている。僕たちには、彼女を裁く権利も、彼女の苦しみを天秤にかける権利もない。ただ、気づいてしまった者として、彼女をそこから解放する義務があるだけです」
ミナトの声は震えていた。だが、その言葉は、どんな理論武装よりも強く、メンバーたちの心を揺さぶった。理屈ではない、魂からの訴えだった。
長い沈黙を破ったのは、レイジだった。彼はミナトの肩に手を置くと、アジトの全員に聞こえるよう、厳かに宣言した。
「作戦目標は、セレブラム・クラスターの物理的破壊とする。我々は、偽りの神を殺し、囚われた詩人を解放する」
その瞬間、アジトの空気は変わった。対立は消え、一つの目的のための、静かで、しかし鋼のような決意に満ちた緊張感が場を支配した。メンバーたちは、もう後戻りのできない破滅的な道へ進むことを覚悟し、それぞれの持ち場へと向かっていく。
ミナトは、自分が世界の運命を左右する決断の引き金を引いてしまったことの重みを、全身で受け止めていた。彼はもう、ただの傍観者ではなかった。