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第四章: 原初の細胞 "EVE"

リベルタスの一員となってから数週間、ミナトの生活は一変した。昼はナーヴコア社で凡庸なデータ校正技師を演じ、夜はアジトで深淵を覗くハッカーとなる。彼らの当面の目標は、レイジが「EVE(イヴ)」とコードネームで呼ぶ、ただ一人の人物を探し出すことだった。

作戦会議で、レイジはメンバーにその重要性を説いた。 「我々がやろうとしていることは、社会インフラの破壊だ。世間から見ればただのテロ行為に過ぎん」彼の義眼が、集まったメンバー一人一人の顔をなぞる。「だが、もし我々が『魂を奪われた一人の被害者の顔』を世に示せたとすれば、物語は変わる。我々の戦いに、人々が共感しうる『大義』を与えることができる。EVEは、我々の武器であり、守るべき最後の尊厳だ」

それだけではない、とレイジは付け加えた。全てのオルガノイドの元となったオリジナル細胞の遺伝子情報は、セレブラム・クラスターという巨大なシステムの、未知の仕様書でもある。そこに、システム全体を崩壊させうる鍵が隠されている可能性もあった。そして何より、それは開発に加担したレイジ自身の、せめてもの贖罪の試みでもあった。

しかし、EVEの捜索は困難を極めた。50年以上も昔、まだAetherが存在しなかった時代のデータだ。ナーヴコア社の前身である医療ベンチャー「ライフジェネシス研究所」の記録サーバーは、鉄壁のセキュリティで守られているか、あるいは物理的に破棄されている可能性すらあった。

リベルタスの誇るハッカーたちが、総力戦でその鉄壁に挑んだ。ミナトも、データ構造の解析や欠損ファイルの復元といった、自身のスキルを活かして捜索に加わった。古いサーバーのバックドアを探し、時代遅れだが巧妙なセキュリティの罠を一つ一つ解除していく。それは、デジタルな考古学調査にも似た、気の遠くなるような作業だった。

何日も続いた攻防の末、チームの一人が歓声を上げた。 「見つけたぞ! 旧サーバーの深層アーカイブに、暗号化された患者リストの断片が残ってた!」

そこから先は、パズルのような情報連結作業だった。断片的なカルテ番号、日付、担当医のサインの筆跡データ、そして「進行性神経変性疾患」という病名。それらのピースが一つに繋がった時、すべての条件を満たす一人の人物が浮かび上がった。

『月島 詩織(つきしま しおり)。享年23歳』

付随するデータとして、彼女個人のものと思われる日記のログ、詩集の草稿、そして研究所との間で交わされた契約書のPDFファイルが発見された。アジトのメインスクリーンに、数少ない彼女の写真が映し出される。モノクロの、少し画質の粗い写真。病の影を感じさせない、儚げで、しかし強い意志を秘めた瞳で、彼女は微笑んでいた。

ミナトは、吸い寄せられるように彼女の日記のログを読み始めた。

『十月七日。今日は調子がいい。窓から見える銀杏の木が、黄金色の涙をこぼしているみたいで、とても綺麗。この美しさを、私がいなくなっても誰かに伝えられたらいいのに』 『十一月十五日。先生から、私の細胞が未来の医療に役立つかもしれないという話を聞いた。私の身体はもうすぐ動かなくなるけれど、私の一部が、未来で誰かの希望になるのなら。それは、私という不完全な詩が、ようやく完結するということなのかもしれない』

その純粋で切実な願いの言葉は、ミナトの胸を強く打った。彼は次に、問題の契約書データを開いた。表向きは「先進医療技術研究への貢献に関する同意書」と美しい言葉が並んでいる。だが、ミナトはその末尾にある小さな注釈に気づいた。素人には理解不能な専門用語と法的用語で、こう記されていた。

『本同意に基づき提供された生体サンプルから派生する、あらゆる技術、発明、発見、およびそれに付随する知的財産権、商業利用権は、期間の定めなく、無償でライフジェネシス研究所に帰属するものとする』

狡猾で、冷徹な悪意。詩織の崇高な願いは、この一文によって完璧に合法的に搾取されていたのだ。

ミナトは、Aetherから感じていたあの奇妙なノイズの正体を、今、魂のレベルで理解した。あれはシステムエラーなどではない。セレブラム・クラスターという機械の牢獄に囚われた、月島詩織という詩人の魂の断片が、五十年もの間、漏らし続けていた悲痛な囁きだったのだ。

彼はスクリーンに映る詩織の笑顔を見上げた。これはもう、社会の欺瞞を暴くための戦いではない。

一人の女性の踏みにじられた尊厳を取り戻し、彼女の魂をこの地獄から解放するための、救出作戦なのだ。ミナトは静かに、しかし指の関節が白くなるほど、固く拳を握りしめた。