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第三章: 解放を掲げる者たち

真夜中の空気は、Aetherが管理する昼間のそれとは違い、湿った埃と忘れられた金属の匂いがした。ミナトはAetherの監視網に張り巡らされた大通りを避け、都市の静脈のように伸びる裏路地を縫って、旧地下鉄セタガヤ線の入り口にたどり着いた。コンクリートで固く封鎖された入り口の脇に、人一人がやっと通れるほどの、闇へと続く穴が口を開けている。そこは、Aetherの地図には存在しない場所だった。

錆びた階段を降りると、カビと淀んだ水の匂いが鼻をついた。スマートフォンのライトを頼りに進むと、広大な地下空間が姿を現す。廃駅だ。壁のタイルは剥がれ落ち、広告の残骸が幽霊のように垂れ下がっている。第3プラットフォームの朽ちかけたベンチに腰を下ろすと、完全な静寂が耳に痛いほどだった。光の世界の絶え間ない情報ストリームから切り離された、絶対的な無音。

約束の時刻、ホームの奥の壁が、音もなく横にスライドした。眩しい光と共に現れた人影が、無言で彼に手招きをする。ミナトは唾を飲み込み、その光の中へと足を踏み入れた。

壁の向こうは、廃墟のイメージとはかけ離れた空間だった。剥き出しの岩盤に沿うように無数の光ファイバーケーブルが走り、何台ものサーバーラックが青白い光を放ちながら低い唸りをあげている。床にはホログラムの設計図が投影され、数人の男女が黙々とキーボードを叩いていた。誰もが社会からはみ出した者特有の、鋭く、油断のない目をしている。彼らは新参者のミナトを一瞥すると、すぐに興味を失ったように自分の作業へと戻った。

アジトの最奥、古い駅長室を改造したと思われる一室で、ミナトはリーダーのレイジと対面した。男は五十代半ばだろうか。深く刻まれた皺は、疲労と苦悩の歴史を物語っている。だが、その眼光は衰えていない。特に、機械的に駆動音を立てる左目の義眼は、まるで生物を観察するかのように冷たくミナトを捉えていた。

「よく来たな、データ校正技師くん」レイジの声は、砂利が擦れるようにざらついていた。「お前さんが感じた『ノイズ』について、聞かせてもらおうか」

ミナトは、自分が体験したAetherの奇妙な挙動、特に「塩辛い」という一語について、ありのままを話した。レイジは黙って聞いていたが、ミナ-トが話し終えると、ゆっくりと頷いた。

「やはりな…」彼は立ち上がり、部屋の中央にあるホログラム・テーブルを起動させた。青い光の粒子が収束し、ミナトが匿名ネットワークで見た、あの忌まわしいシステムの立体映像を映し出す。

「セレブラム・クラスター。私がナーヴコアにいた頃の、最後の仕事だ」レイジは苦々しく言った。「我々は当初、純粋なシリコンベースの汎用AIを夢見ていた。だが、人間の感情の機微、あの非論理的で曖昧な部分を再現する壁にぶち当たった。経営陣は開発期間の短縮とコストダウンを要求し…そして、悪魔的なアイデアに飛びついた」

ホログラムが拡大され、一つのカプセルの内部が映し出される。ピンク色の脳オルガノイドに、無数の微細な電極が突き刺さっていた。

「iPS細胞から作った、ただの神経細胞の塊。それが会社の言い分だ。前頭前野の発達を意図的に抑制し、高度な自己認識が生まれないように設計されている。個々のオルガノイドは、ユーザーからの問いかけという電気信号に対し、学習済みのパターンに基づいて反射的に信号を返すだけ。その無数の信号を統合し、Aetherの『思考』として出力する。単純な仕組みだ。そして、倫理的に『問題ない』とされた」

「だが」とレイジは続ける。「奴らは一点だけ、致命的な見落としをした。何千、何万という『断片的な脳』を繋ぎ合わせ、常に外部から刺激を与え続けたら、そこに何が生まれるか。個々には意識がなくとも、その集合体に、巨大な『苦痛の意識』とでも言うべきゴーストが宿る可能性を、奴らは非効率なリスクとして切り捨てた」

レイジは自らの義眼を指差した。「この目は、Aetherのネットワークに流れる生データを傍受できる。お前が感じた『ノイズ』は、バグじゃない。あれは、あの肉の機械から漏れ出す苦痛の残響だ。断片的な記憶、感覚、そして終わりのない閉塞感からくる、声なき絶叫なんだよ」

圧倒的な真実に、ミナトは言葉を失った。好奇心から始まった探索は、想像を絶する非人道的なシステムの入り口に彼を立たせていた。

レイジはホログラムを消すと、ミナトの目を真っ直ぐに見据えた。義眼の冷たい光が、彼の魂を射抜くようだった。

「真実を知ったお前は、どうする? このアジトから出て、すべてを忘れ、光の差す日常に帰るか? それとも、我々と共にこの深淵に留まり、偽りの神を引きずり下ろすために戦うか?」

ミナトの脳裏に、あの「塩辛い」という言葉の、ざらついた感触が蘇った。あれは、誰かの涙の味だ。もう、見て見ぬふりはできなかった。

「戦います」

ミナトは、はっきりと答えた。彼の声に、もう迷いはなかった。レイジは初めて、その口の端にわずかな笑みを浮かべたように見えた。