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第二章: 深淵で囁かれる冒涜

ミナトの部屋の明かりは、Aetherが推奨する入眠時刻に合わせて、とっくに暖色系の常夜灯へと切り替わっていた。しかし、彼は眠る気になどなれなかった。旧世代のラップトップを開き、何重にもプロキシサーバーを噛ませ、軍事レベルの暗号化を施した回線を通じて、彼は光の届かない場所へと意識を沈めていった。

そこは、サーフェイスウェブの洗練されたインターフェースとは無縁の、混沌とした情報の深淵だった。時代遅れのテキストベースの掲示板、絶えずアドレスを変える暗号化チャットルーム、そして真偽不明のデータが商品のように取引される闇市場。Aetherの効率化された世界から弾き出された者たちの欲望と悪意、そしてほんの一握りの真実が、デジタルの汚泥のように渦巻いている。

「Aether」「内部告発」「ナーヴコアの闇」。ありきたりなキーワードで検索を始めると、予想通りのガセネタの洪水に襲われた。「ナーヴコアCEOはレプティリアンだ」「Aetherは宇宙人と交信している」。ミナトは、ナーヴコア自身がカウンター情報として意図的に流しているであろう馬鹿げた陰謀論を、慎重に、そしてうんざりしながら弾いていく。情報を売ると持ちかけてきて、支払いと同時にアカウントを消す詐欺師や、好奇心旺盛なネズミを捕らえようとマルウェアの罠を仕掛けるハッカーを、彼は持ち前の知識で冷静にかわし続けた。

何時間もの無益な探索の末、諦めかけた彼の目に、あるフォーラムの入り口が留まった。『深淵の囁き(Abyssal Whispers)』。入室には、公開鍵暗号を用いた複雑な認証パズルを解く必要があった。そこは、冷やかしや通りすがりの者が立ち入ることを拒絶する、閉鎖的な空間だった。数十分かけてパズルを解き、中へ入ると、そこにはAetherへの本質的な疑念を抱く者たちの、濃密な議論が交わされていた。

そして、彼はそのスレッドを見つけた。

タイトル:『プロジェクト・プロメテウスの冒涜』

本文は短かった。『神々の火を盗んだのは、機械ではない。我々自身の肉だ』。そして、いくつかのデータファイルが添付されていた。

最初に開いたのは、一枚の画像データだった。ノイズが走り、全体的に青みがかった不鮮明な写真。だが、そこに写っている光景に、ミナトは生理的な嫌悪感で背筋が粟立つのを感じた。巨大な空間の壁一面に、蜂の巣のように埋め込まれた無数のカプセル。その一つ一つに、ピンク色の、人間の脳によく似た有機的な塊が、気味の悪い液体の中で静かに浸されている。所々に絡みつくケーブルは、まるで血管のようだった。

次に、設計図らしきPDFデータを開いた。「Cerebrum Cluster(セレブラム・クラスター)」と銘打たれたその資料には、「生体ニューラルネットワーク」「同期型栄養供給システム」「集合的無意識インターフェース」といった、理解を超えた専門用語が並んでいた。だが、それが意味するところは直感的に理解できた。これは、生物を「部品」として組み込んだ、機械の設計図だ。

とどめは、内部告発者本人と思われるテキストログだった。詩的で、狂気に満ちていた。

『彼らは歌わない。思考は色を持たず、ただ痛みだけが信号として走る』 『シリコンは夢を見ない。だが肉は悪夢を見る。何千もの悪夢が同期するとき、神の如き知性が生まれると、開発者たちは笑っていた』 『私はそこから逃げ出した。あの囁き声から。私の頭の中にまで響いてくる、名前のない誰かの叫び声から』

ミナトはラップトップを閉じた。心臓が激しく鼓動している。第一章で感じた、あの「塩辛い」という言葉の正体。Aetherの応答に混じる、あの人間的な「ためらい」や「悲哀」。あれはバグなどではない。この、名もなき「肉」たちの、声なき叫びが漏れ出したものだったとしたら?

全身を駆け巡る恐怖と、それを上回る強烈な好奇心。彼はもう、引き返すことはできなかった。この目で真実を確かめなくてはならない。ミナトは再びフォーラムにアクセスし、スレッドの投稿主へ接触するための手順を確認した。それは、もう一つの暗号パズルだった。彼は震える指でキーを叩き、答えを導き出し、たった一言だけを添えてメッセージを送信した。

『話が聞きたい』

長い、針の筵に座らされているような沈黙が続いた。一時間、二時間…。諦めてPCをシャットダウンしようとした、その時。彼の端末に、一件だけ、暗号化されたメッセージがポップアップした。送り主は、“Libertas”。

『真夜中。旧地下鉄セタガヤ線、廃駅第3プラットフォーム。武器も通信機器も持つな。一人で来い。覚悟があるならな』

それは、光の世界からの完全な離脱を意味する、後戻りのできない招待状だった。