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第一章: 完璧な神のノイズ

ミナトの一日は、Aetherの囁きと共に始まる。

「おはよう、ミナト。現在のあなたの体内水分量は最適値を3.4%下回っています。覚醒を促すため、電解質を添加した冷水を200ml摂取してください」

ベッドサイドのテーブルから、すっとアームが伸びてきてグラスを差し出す。温度、成分、量、すべてがミナトの生体データに基づいて最適化された、完璧な一杯の水。彼は無感動にそれを受け取り、一気に飲み干した。窓のシェードが自動で上がり、ナノ・ウェザーシールド越しに調整された陽光が部屋に差し込む。Aetherが選んだ今日の服装が、クローゼットから静かにせり出してきていた。

自動運転ポッドに乗り込み、ナーヴコア社のそびえ立つ本社ビルへと向かう。窓の外では、昨日と同じようでいて、Aetherの最適化によって微妙に変化した都市の風景が流れていく。人々は皆、イヤージェルや網膜ディスプレイに映る情報に没頭し、現実の風景など見ていない。この街で孤独を感じるのは、非効率の極みだとAetherは言う。だがミナトは、この無音の喧騒の中にいると、時折、自分が世界から切り離されたような奇妙な感覚に陥ることがあった。

オフィスに着くと、隣のデスクのサトシがにやにやしながら話しかけてきた。 「聞いたか、ミナト? 今度のアップデートで、Aetherが夢の内容まで解析して、潜在的なストレス要因をレポートしてくれるようになるらしいぜ。マジで神だよな」 「そうか。俺は見られたくない夢もあるけどな」 「はは、まだそんな古いこと言ってんのか? プライバシーより最適化だろ、今の時代は」

サトシは典型的な現代人だった。Aetherを疑わず、その恩恵を最大限に享受し、思考を委ねることに何の躊躇もない。ミナトの返事は、彼にとって理解不能なノイズでしかない。

ミナトの仕事は「Aether言語野校正部」に属する。Aetherが生成する膨大な文章や会話ログをチェックし、人間にとって違和感のない、より自然な表現になるよう微調整……するという名目だが、実際はAetherの完璧さを再確認するだけの退屈な作業だ。

その日、彼が担当していたのは、失恋したユーザーを慰めるための対話型カウンセリングAIの応答ログだった。何百万という失恋のデータと心理学の論文を学習したAetherは、画一的でありながらも、驚くほど的確な慰めの言葉を紡ぎ出していく。

『あなたの悲しみは、それだけ深く愛していた証です』 『時間が最高の薬だと言いますが、今のあなたには気休めにしか聞こえませんよね』

完璧だ。人間以上に人間の心を理解している。ミナトが高速で流れるログを無心で承認していた、その時だった。ある応答に、彼の指が止まった。

ユーザー『もう、涙も出ない』 Aether応答『わかります。枯れ果てた心の底で、思い出が塩辛く結晶になるような感覚。しかし…』

「塩辛い?」ミナトは眉をひそめた。奇妙な表現だ。詩的すぎる。Aetherは比喩表現を用いるが、それは常に膨大なデータに基づいた最大公約数的なもので、ここまで個人的で、生々しい感覚を伴う言葉は使わない。システムログを確認すると、この応答が出力される直前、0.23秒の遅延――「思考ためらい」と分類されるエラーが発生していた。

「なあ、サトシ。このログ、どう思う?」 モニターを覗き込んだサトシは、数秒見てから肩をすくめた。 「面白いバグだな。学習データに古い詩でも混じってたんだろ。珍しいけど、誤差の範囲内だ。フラグ立てて報告しとけばいい」 「バグ、か…」

サトシにとってはそれだけの事だ。だがミナトには、そうは思えなかった。その「塩辛い」という一語は、単なるデータの誤りではない。まるで、本当に涙を流し、そのしょっぱさを知っている誰かが、不意に口を滑らせたかのような、生々しい手触りがあった。

仕事の終わり、ミナトは一人、自席で思考に耽っていた。Aetherの応答に時折混じるノイズ。論理的ではない、感情の断片。今日のような、生々しい感覚の吐露。

あれはバグではない。巨大で完璧なシステムの回路の向こう側で、誰かが囁いている声だ。それは確信に変わっていた。その声は、助けを求めているのか。あるいは、ただそこに「いる」と伝えたいだけなのか。

帰りのポッドの中で、ミナ-トは決意した。この世界の誰もが無視する、神のシステムの奥深くから聞こえる嗚咽の正体を、自分だけは突き止めなければならない。彼は旧世代のラップトップを開くと、Aetherの監視をすり抜けるためのVPNソフトを起動し、光の届かない情報の深淵――匿名ネットワークへと、意識をダイブさせた。