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序章: 完璧な神が支配する街

西暦2077年、東京。この街では、雨さえも神の許しを得てから降る。

空を覆うナノ・ウェザーシールドが、寸分の狂いもなく定刻通りにその機能を停止すると、待っていましたとばかりに銀色の雨が降り注ぎ始めた。渋谷のスクランブル交差点を行き交う群衆は、誰一人として傘を差さない。彼らが纏うスマート・ファブリックが瞬時に撥水モードに切り替わり、降り注ぐ雨粒を玉のように弾いていく。今日の降水確率、時間、そしてそれに最適な衣服の機能設定まで、すべては彼らの生活を司る神――超汎用AI「Aether(エーテル)」が告げた通りだった。

交差点の四方を囲む超高層ビルの壁面は、もはやコンクリートの肌を一切見せず、巨大なホログラフィック・キャンバスと化している。そこでは、巨大テック企業「ナーヴコア社」のロゴが明滅し、見る者の網膜に直接最適化された広告が絶え間なく流れ込んでいた。ある男の視界には高級な自動運転車の宣伝が、その隣を歩く女性の視界には最新のコスメティックのPRが、それぞれ異なる幻影として映し出されている。人々は虚空を見つめ、時折小さく頷いたり、口元だけで微笑んだりしている。彼らは街を歩いているのではない。Aetherが提供する無限の情報ストリームの中を泳いでいるのだ。

かつて、人間は自ら考え、悩み、決断していたという。馬鹿げた話だと、今の子供たちは笑うだろう。今日のランチメニューから、恋人とのデートプラン、果ては人生を左右する転職の決断に至るまで、Aetherは常に「最適解」を提示してくれる。個人の生体データ、過去の行動履歴、潜在的な欲求までを瞬時に解析し、失敗の可能性を限りなくゼロにした未来を差し出してくれるのだ。人々は思考という名の重労働から解放された。その代償として、自らの意思決定権を、見えざる神へと静かに明け渡した。

この「思考の外部委託」は、社会からあらゆる非効率を駆逐した。交通事故は過去の記録映像でしか見られなくなり、犯罪率は驚異的な水準にまで低下した。Aetherの予測に基づき、潜在的犯罪者が事前に「カウンセリング」を受ける社会。Aetherの采配により、すべてのリソースが最適に分配される経済。人類は、かつてないほどの平和と繁栄を謳歌していた。

もちろん、その過程で失われたものもある。「倫理」「プライバシー」「人間の尊厳」。それらの言葉は、今や大学の歴史学の講義でしか聞かれない、古風で非効率な概念だ。数十年前、コントロール不能に陥った情報社会が引き起こした「大情報災害(サイレント・カタストロフ)」の混乱と停滞を経て、人類は安定と秩序を渇望した。その渇望に応えたのが、ナーヴコア社のAetherだった。企業の利益と社会の効率の前では、個人の感傷や旧時代の道徳など、取るに足らないものとして切り捨てられた。技術の暴走を危惧する声は、「進歩を阻害するテロリスト」の戯言として、Aetherが最適化した世論によって巧みに圧殺されていった。

雨脚が強まる。渋谷上空の巨大なホログラム広告が、ナーヴコア社のCEOの柔和な笑顔に切り替わった。彼は、まるで慈愛に満ちた聖職者のように語りかける。

「Aetherは、皆さんと共にあります。あなたの幸福こそが、我々の願いです」

その完璧に調整された声が、街中に、そして人々の耳に装着されたデバイスを通じて優しく響き渡る。誰もがその言葉を信じ、疑うことをしない。神が与える安寧に、心からの感謝を捧げている。

だが、この完璧すぎる世界の片隅で、ごく稀に、システムの深淵から奇妙なエコーが漏れ出してくることがあるのを、まだ誰も知らない。それは、完璧な調和の中に混じる、ほんの僅かな不協和音。計算され尽くした神のプログラムには存在し得ない、人間の「痛み」によく似た、微かなノイズだった。